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Chris Marsden
2012年1月10日
監督:フィリダ・ロイド、脚本:アビ・モーガン
元イギリス首相マーガレット・サッチャーの栄枯盛衰のフィクション物語『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、少なくとも興味深かったはずで、重要な作品でさえありえたろう。メリル・ストリープの、サッチャーとしての実に素晴らしい演技を唯一の例外として、一体なぜ、これほどの甚だしい失敗に終わったのだろう?
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
これは駄作だ。ストリープの中心となる演技と、それを支えるきら星のごときキャストの演技が無ければ、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、ホールマーク・チャンネルのテレビ映画に見られる感情への訴えかけと芸術的整合性の塊でおわったろう。
あるレベルで、そのような一連の救いようのないほど恥ずべき判断が、一体いかにして、制作の主導者、監督フィリダ・ロイドと、脚本家アビ・モーガンによって、なされたのか不可解に思える。
イギリス国内のみならず、国際的にも、劇的な社会的・政治的変化と、強烈な階級間の対立の時期と密接に関連した人物を主人公をにしておきながら、その全てを、ほとんど支離滅裂で、無批判的に提示される状況へとおとしめている。そして同じ様な手法で、かつての実力者が今や認知症に苦しむもろさと、サッチャーと、夫デニス(ジム・ブロードベント)との間の一連の想像上のやり取りのラブ・ストーリーという形に絞って提示される。
この仕組みは、サッチャーを人情味あふれる人物にするのに利用されている。フィリダ・ロイド監督が、ガーディアンに語っている通り、この映画は“喪失感、自我同一性、老年、忘却されることへの直面についてのものなのです。… 私たちの話なのです。我々の母親の話です。我々の父親の話です。そして我々の。私たちはどうなってゆくか。… 人々が、違った方向に投票するように要求しているわけではありません。人は死すべき運命にあることの思索に過ぎません。これは政策に対する寛容の願いです。偉大な人生の代償の思索です。”
もしそれが『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』が狙っていたことの全てであれば、実に浅薄な事だ。どのみち、サッチャーは人間で、人間の脆さをもっていることを我々は知っている。だが一体何故、元首相を、公人としての生活の詳細にのみ興味がある人物を、人間に共通する経験の化身として選んだのだろう?
彼女の政治的見解や政権での行動の描き方を含め、映画が概してサッチャーを共感して扱っていることで、事態はさらにひどくなる。“大きな困難を乗り越えて、権力の座についた強力な指導者で、他の連中が信念を失う中、立場を譲らず、世界的スーパースターとなり、そして、自らの傲慢さ、あるいは、彼らの見方によれば、取り巻く全員の裏切りによって、屈辱的な結末へと失墜した”と、ロイドはサッチャーをかなり称賛に満ちた言葉で表している。
自身がフェミニストであるロイドは、サッチャーの1979年選挙戦勝利に対する自分の反応は“そう! 彼女は初めてドアを入った女性だ。”と語っており、ちょっとしたフェミニストの偶像として、サッチャーを描いている。
モーガンの脚本は同様な情緒に基づいている。彼女はエンパイア誌に語っている“私の中の一部は彼女に敬服していて、私の一部は、彼女は幾つかの事を台無しにしたと考えています。… 悪いことをせずには、良いことはできないのです。”
更に、彼女はテレグラフに説明している、“フィリダには、マーガレットのものの見方で、物事を見ようという強い意思がありました。”
少なくとも、その点では映画は成功している。サッチャーは、大部分、彼女がそう自分を見たであろうように描かれている。無節操な妥協が基本方針という意気地のない男性連中で、全面を包囲されている強い信念の人物だ。
他の唯一実質的に優れた人物、デニス・サッチャーの表現として、ブロードベントが陽気な、扱いにくいじいさんを演じているのは、とりわけ馬鹿げている。夫サッチャーは、かなり恐ろしい人物で、億万長者の反共主義者で、南アフリカのアパルトヘイトの称賛者で、南ロンドン・ブリクストン地区の住民のことを“縮れ毛の黒人”と表現していた。この現実からして、彼を冷たく厳格なサッチャーのサッカリン、憎めない引き立て役に使っているのは、時に不愉快になるほどだ。
デニスはさておき、他の登場人物の大半は、美化された端役で、彼等と比較すれば、サッチャーがましに見えるようにするという唯一の明白な目的のため。実際、サッチャーは、右派の名目上のリーダーとして、保守党内で名をなしたのだ。彼女には、政策と方針を教示する後援者の同志がいたのだ。
とはいえ、映画制作者によって、彼女に何らかの影響を与えたとされるもう一人の人物はエアリー・ニーヴ(ニコラス・ファレル)で、この極右の人物は英雄の様に描かれている。サッチャーは、概して独立独歩の自然児女性、栄光の孤立の中で輝く星として描かれているが、なぜ、これほど明らかにあつれきをひき起こす人物が、保守党や支配層エリート全体によって、“社会主義の前線を撃退する”という連中の狙いを実現するため、指導者として選ばれたかということについての説明は皆無なままだ。
多少詳しく描かれる唯一の労働党の人物は、マイケル・フット(マイケル・ペニングトン)で、ある場面で、彼はサッチャーの逆行的な経済・社会政策を非難する。労働者階級の存在については、1984-1985年の炭鉱夫ストライキや反人頭税暴動の様な出来事を短く描き出す際、ロイドは、警官隊との様々な戦いのニュース画面に大半を依存している。
大いに注目されている唯一政治的な出来事は、フォークランド-マルヴィナス戦争だ。サッチャーについてのもっとも露骨なごまかしがここにある。ドイツ空軍がグランサム爆撃した当時は子供で、IRAの手によるテロの犠牲者として、彼女を描き出した後、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』新たなウインストン・チャーチルとしての、イギリス首相の別バージョンを我々に提示する。チリの独裁者アウグスト・ピノチェト将軍の崇拝者であることを隠さないサッチャーが、アルゼンチン軍事政権の“ファシスト”を打ち負かすという彼女の決意を熱烈に誓う様が見せられるのだ。1982年5月、イギリスが宣言した立入禁止区域外にいて、そこから離れ去るところだった巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ撃沈で、323人のアルゼンチン人が死亡したことを、軍がサッチャーに、巡洋艦はすぐ引き返して、挟撃作戦を遂行しかねないと言って、映画の中では正当化されている。
後で、勝ち誇ったサッチャーが彼に、今やあら探しではなく、国家として結束すべき時だと語る際、フットは、唖然として、野党議員席に座っている。労働党と労働組合と、サッチャーの本当の関係、フォークランドの火遊びで、フットが彼女を支持したことには決して触れない。労働者階級に対する彼女の勝利は、主として警察の暴力や法的弾圧によったわけでなく、労働組合の裏切りと、フットの後継者ニール・キノックの下で、労働党が、サッチャーの自由市場経済教理を多少手加減した改変版を採用することによって得たものだ。
ロイドは、サッチャーの失脚とその後の運命を、リア王になぞらえている。彼女は最終的に、1990年11月、首相立候補から排除された際、傲慢さのあまり、ほとんど狂ったように描かれてさえいる。実際、サッチャーは、その頃までに、はなはだ不人気になっていたため、保守党は選挙での敗北を恐れていたのだ。彼女は親ヨーロッパ派の政敵からは狙われ、提案されていたヨーロッパ単一通貨に全面的に参加するか否かを巡って、徹底的に分裂した党内の多くの元同盟者達から見捨てられた。十年後、75歳で、サッチャーは、認知症の最初の兆しを表しはじめた。
このどれをとっても大きな悲劇ではない。サッチャーはリア王ではないのだ。彼女の子供、マークとキャロルは、ゴネリルとリーガンではなく、ついでに言えば、ジェフリー・ハウ副首相(アンソニー・ヘッド) もマイケル・ヘーゼルタイン国防相(リチャード・E・グラント)もそうではない。
そしてここに、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』の本質的欠陥がある。あらゆる脚本家も監督も、サッチャー時代を包括的にの政治表現するよう試みるべきだ。芸術家が、サッチャーを悪者扱いすることなど、必要でもなければ、望ましいことでもなく、監督と脚本家とがそういうことは避けたいと表明していたとおりになっている。とはいえ、真摯な表現は、少なくとも、正直な、首尾一貫したもので、感情的、心理的洞察を可能にするような、ある程度の歴史的事実に基づくべきだ。ところが、結果はどうだろう? 依然として贅沢な暮らしをし、雇い人達が仕えるサッチャー晩年の描写に、ストリープの多大な努力にもかかわらず、熱中させられることもなく、心を動かされることもない。
トニー・ブレアもゴードン・ブラウンも、サッチャーのことを鼓舞されるような人物だと語り、1997年の次期労働党政府の下でも衰えずに続いた、階級間の妥協と、階級対立に対する限定された社会改革に根ざす政策からの、支配階級の転換と、束縛を解かれた投機と、サッチャーとは、決して消し去れない関係にある。
最終的な結果は、歴史的に類がない、寡頭金融勢力の手中への社会的富の移動だった。
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、サッチャーの歴史的名声が依拠している、自由市場というインチキ処方によって促進された崩壊に対し、労働者につけを払わせるために、デービッド・キャメロンの保守党-自由民主党連立政権が、残酷な緊縮政策を押しつけている時期に、公開される。そうした条件の下で、彼女の生涯をテーマにするにあたって不偏不党の姿勢をとるというのは、とうてい芸術的選択たりえない。彼女の国葬を計画していて、非常に緊張した政治的・社会的環境の中で、彼女の遺産を詮索されることを嫌っている支配層エリートに広く納得してもらえる作品を作りたいという願いを示唆している。
記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2012/jan2012/iron-j10.shtml
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日本を原発密集地にしてくださった元祖、大宰相氏がメリル・ストリープと握手する写真を見て、以前の記事を思い出した。彼氏の政策、彼女の政策の日本版。
労働者階級に対する彼らの勝利は、主として警察の暴力や法的弾圧によったわけでなく、労働組合の裏切りと、後継者達の下で、エセ野党の成り上り与党が、彼等の自由市場経済教理を多少手加減した改変版を採用することによって得たものだ。
いつものことだが、体制側によるプロパガンダ映画、見る意欲も、時間も、気力もないので見ていないままのインチキ翻訳、お金を払って鑑賞される皆様のご参考になるかどうか定かではない。
日本の労働組合のひどい裏切り、本澤二郎の「日本の風景」(1004)<労働貴族の死>に、まざまざと描かれている。
本澤二郎氏、身近で実態をご覧になった上で書いておられる。当ブログのような、メタボの歯ぎしりとは比較にならない迫力。
労働組合の裏切り、今もしっかり続き、原発推進・TPP加盟推進という、自由主義・市場主義教にもとづく、自滅・売国政策を推進している。
本澤二郎氏、大勲位氏についても触れておられる。
2008年06月10日 本澤二郎の政治評論「大勲位・中曽根康弘」:本澤二郎
上記記事のなかでは、原発事故を懸念しておられる。
2011年05月17日 本澤二郎の「日本の風景」(768)<「平成の妖怪」に原発反省ゼロ>
2011年11月14日 本澤二郎の「日本の風景」(919)<松下政経塾のTPP抱き合い心中>
2012年02月18日 本澤二郎の「日本の風景」(990)<橋下徹の真実>