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Bernd Reinhardt
2013年1月24日
カルステン・ラウとハウケ・ヴェンドラー監督
ワジム
最近ドイツARDテレビは、カルステン・ラウとハウケ・ヴェンドラーの監督による素晴らしい受賞ドキュメンタリー「ワジム」を放映した。
家族と家を失い、この惑星上に自分の居場所がないことを悟って、23歳のワジム Kは、2010年にハンブルクで自殺した。
ソビエト社会主義共和国連邦の崩壊後、両親は、ドイツで新生活を築きあげようと、5歳のワジムと弟を連れてラトビアを脱出した。ラトビアがソ連の一部だった間、リガで、父親は警部として、母親は軍需工場で働いていた。
1987年、ラトビア国民は街頭デモに繰り出した。しかしスターリン主義に仕返しをするはずのものとして立ち上がった運動は、ラトビア独立と“ロシア占領軍”撤退を要求する民族主義勢力に支配されていた。ロシア語話者だったワジムの両親は突然自分達が攻撃されていることに気がついた。1991年のラトビア独立後、父親は職を失った。
1992年、一家はハンブルクへの政治亡命要求に望みをかけた。申請の一環として、父親はドイツの本当の民主主義や複数政党制度に感銘を受けており、家族の為にまともな暮らしをし、仕事を見つけ、子供達を育てたいと述べていた。
一家の最初の滞在地は、亡命希望者用宿泊船だった。四人の家族は一つの狭い部屋を割り当てられた。1995年、彼等の亡命申請は拒否された。ドイツ当局は、彼等をラトビアに送還することができなかった為、家族全員が暫定的に“認められた”在留資格を与えられた。新たなラトビア国家は“ロシア人”をラトビア国民と認めたがらなかった。一家は無国籍になった。
1998年、ドイツとラトビアは、本国送還協定を取り決めた。一家の法律アドバイザーによると、そこで家族はいつ何時送還されかねない可能性に直面した。不確定な状態は、2005年まで続いた。ワジムが18歳になって間もなく、真夜中に警官が現れた。すっかり失望して、ワジムの母親は手首を切り、精神科治療のため収容され、父親は被送還者用刑務所に収監された。
ワジムはフランクフルトに車で連れて行かれ、飛行機に搭乗させられた。間もなく彼は“故郷”のリガにたどり着いた。ポケットには10[13.00ドル]しかなく、ラトビア語は一言も解さず、ロシア語もほとんど分からなかった。ドイツ人でない為、ドイツ大使館は彼を助けるのを拒否した。ワジムが最後に見つけた宿泊先はホームレス保護施設だった。彼はラトビア国籍を申請した。450,000人の他の“ロシア人”同様、申請書は拒否された。
彼は違法にドイツに戻り、後にフランスとスイスに足掛かりを得ようとしたが無駄だった。2006年、彼はベルギーから送還された。彼はリガでロシア企業の未熟連労働者として働く仕事を見つけた。ロシア人投資家は、ラトビアでは明らかに大歓迎だった。
そこに2008年の経済危機が襲い、労働力の一部は解雇された。一体いつ彼の番になるのだろう? 彼は再びドイツへと戻った。彼の両親は、もはや本国送還される恐れはない。両親は重い精神病になり、持続的な精神科治療が必要になった。ワジムが、あれほど残酷に追放された故郷のハンブルクが彼の終点になった。
ラウとヴェンドラーは、ワジムの知人達に話す機会を与えている。両親、友人、教師、民生委員、弁護士、一家の法律カウンセラー、ワジムの最初の恋人、等々。その結果は、普通の人間生活をさせようとしない残酷な法律によって、ほぼ20年間にわたり、二人の子供を含め、一家がいかに系統的に破壊されたかという微妙で痛ましい記録だ。
ワジムには当初大いなる希望と楽観的な期待があった。両親は間もなく、子供達が通うであろう幼稚園や小学校のことを考えるようになった。両親は子供達が、ドイツの子供達と離れて成長することは認めなかった。ワジムは教会ミサの侍者にさえなった。
子供達は楽器を弾くことを学んだ。ワジムは率直でバランスの取れた子供で、友人が沢山いた。
しかし両親は、一家が亡命希望者で、ドイツ人移民でないことに、近隣の人々が気がつくことを恐れ始めた。次第に当局の注目をひき始めているのを両親は感じていた。彼等は働くことは許されなかった。就職禁止が、特に父親を益々苦しめた。
母親は、入国管理局に行くには朝4時から5時の間におきなければならないと言った。子供たちも一緒に連れて行かなければならない。建物の前には長い列ができる。門が開くと、全員走って、切符を貰おうとする。切符を取り損なった人は、また翌日こなければならない。押し合いは当たり前で、殴り合いになることもある。警備担当者は人々を押し返す。
一家は依然ドイツ・パスポートを得る希望を持っていた。母親は、ワジムが、ギムナジウム(成績の良い生徒向け中学校)に行けることをとても喜んだ。彼はピアノに加え、バスーンの演奏も始めた。だが元の民生委員は、母親が深刻な鬱病と、精神病を患い始めたと報告している。明らかに才能があるにもかかわらず、ワジムは、2001年にはギムナジウムを辞めざる得ず、半年でハウプトシューレ(それほど成績が良くない生徒向けの学校)へと引き戻されることになった。
最後にドイツ当局は、ワジムが第10学年を終えることさえ拒否した。学年終了三カ月前に彼は送還された。
ずっと待ち続けることと、絶えざる不安から、とうとう一家は崩壊した。家族内での口論が益々増えた。子供達は自分達の状況は父親のせいだと責めた。母親は子供達が自分を軽蔑していると感じている。ワジムの死後、一家を駄目にしたと主張して、家族は彼女を責めた。
ハンブルクの移民担当部門の長ラルフ・ボルンホフトは電話でしか話そうとしなかった。彼の事務所と政治家との長年の協力関係を彼は語った。政治家達は“くどくど話し”安易な策をとるのです。“我々は連中が思い付いたことを(...)実施しなければなりません。我々は嫌がられる仕事をしなければなりません。”
ボルンホフトは、自らを難民や亡命希望者の保護者として描いてきた緑の党を引き合いにだしている。政権につくやいなや、彼等もこうした法律のどれも改訂するのを拒否したのだ。映画は彼自身が社会民主党(SPD)党員であることに言及することもできたろう。ボルンホフトは、右翼政治と官僚的冷淡さの間の組織的な繋がりを体現している。
約87,000人の人々は、難民法により、短期在留許可でドイツに暮らすことを“認められていた”。彼等の約60パーセントは、6年以上、ドイツにいる。
ドイツ・ラトビア間の本国送還協定はSPD-緑の党連立政府の下で1998年に結ばれ、何よりも当時の内務大臣オットー・シリー(SPD)の特徴を帯びている。
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ドイツ語版「ワジム」は、ARDのMediathekウェブ・ページで見ることができる。
記事原文のurl:www.wsws.org/en/articles/2013/01/24/vadi-j24.html
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ラトビア経済粉飾報道の裏側を描くTV映画を紹介する記事。
2010/5/23 ソ連邦からの独立宣言後20年、ラトビアの緊縮政策は世界の労働者階級への警告という、やはりwsws.orgの記事を翻訳した。
移民も、移民を受け入れる方も、簡単な話ではない。先日IWJの2013/01/31 中田考氏インタビューで拝見したイスラム研究者中田氏のお話の中に、カネ、モノの自由な移動は認めるが、ヒトの自由移動をみとめない制度に対する根源的批判があった。
ラトビアの隣国リトアニアには、日本の原発が輸出されることになっている。ラトビアも共同出資。配電も受ける予定という。
東京電力、虚偽説明で、国会の原発事故調査委員による調査を妨害していた。調査委員の田中三彦氏、事故発生直後から、津波による被害のみならず、地震振動そのものによる配管類の破断等も原因の一つではと推測しておられた。彼の説については何度かご紹介してきた。福島メルトダウンの背後にある衝撃的事実 2011年8月20日
そういう主張の方に、主張を裏付ける可能性がある証拠、見せるわけにはいかなかったのだろうか?
「遠くで大きな地震がおきれば、深刻な原発事故がおきてしまう」事実が万一明らかになれば、活断層でなければ安全というデマ宣伝、根底から崩れてしまう。
地震の巣、日本に原発があってはならないと言う説を長く主張しておられる石橋克彦神戸大学名誉教授、日本の原発の危険性を下記の挿絵で説明しておられる。石橋氏も元国会原発事故調査委員。
藤原直哉氏の『ゼロ原発民衆力大爆裂!―「原発」生かせば、地震国日本は壊滅する!!』は、国会事故調報告書、特に地震が原因という可能性についての見解の簡潔な説明として秀逸。「除染」部分のご意見は別として、賛成。(どう考えても、微生物で放射能が消えるわけはないと素人ながら思う。)